2012年7月30日月曜日

107:7・29ベルリン連帯デモ写真速報Berliner Anti-AKW Soli-Demo mit Japan

2012年7月29日ベルリンのパリ広場に集合
本日7月29日にベルリンの都心で行われた東京の国会大包囲デモへの連帯行動は大成功でした。実は夏休みの最中でほとんどの家族連れは不在でもあり、呼びかけを始めたのが24日で、わたしもどれだけ集まるのか疑問でしたが、朝からの雨も上がり、主催者と警察も一致した数として、200人強の日独の人々が、多くの家族連れとともにパリ広場に集まり、ブランデンブルグ門からポツダム広場を経てヒロシマ通りの日本大使館前まで元気に行進しました。

子どもたちも大活躍し、デモの終わりにはドイツ人たちもシュプレッヒコールのSayonara Genpatsu, Saikadoh Hantaiをすっかり覚えてしまいました。

とりあえず、いくつかの写真でお伝えし、のちにもっと多くの写真と詳しい解説を追加します。
(後からの追加情報は末尾をご覧ください)

Die heutige Berliner Soli-Demo mit Japan war troz Sommerloch sehr erfolgreich.
Mehr als 200 Leute haben vom Priser Platz bis zur japanischen Botschaft laut stark demonstriet.
Vorläufig möchte ich einige Bilder sprechen lassen und später ergänzen.


小学生のシュプレッッヒコールが一番上手

ブランデンブルグ門を通り元気に出発




子どもたちも最前線で行進
以下集まった人々






ヒロシマ通りに到着

日本大使館前
大使館に向かって「ふるさとを返せ!」と悲痛な抗議


終わりにもう一度、再稼働反対!、さよなら原発!

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追加情報です。

まづはここで→質の良い写真がまとめて66枚見られます。

主催者のAnti Atom Berlinのホームペジでは、東京の動画と、短いけれども非常に質の良い昨日の→動画が編集次第順次掲載されています。

また、昨日ドイツではフランクフルトでも町の中心で250名の連帯集会が行われており、その様子の動画があります。→ NoNukes Solidarity Tokyo-Frankfurt/M.

31日の追加です。

わたしも知らなかったのですが。29日、ベルリンの公共テレビRBBが夕方のニュースAbendschauで 短信ですがちゃんと映像付きで伝えたとのことです。
それに写っていた小さな女の子が「初めてテレビに出た」と大喜びしたそうです。
これは、NHKの東京のローカルニュースと同じです。

30日の東京新聞にも記事あり。


日本に連帯示せベルリンでデモ「応援伝えたい」
 


【ベルリン=弓削雅人】東京で抗議行動「脱原発 国会大包囲」が行われた二十
九日、ドイツの首都ベルリンでも「さよなら原発。世界中の原発を今すぐ止めよ
う」を合言葉に、日本に連帯を示すデモが開かれた。
 
 主催した市民団体「反原発ベルリン」は、東京で今月十六日、関西電力大飯原
発の再稼働に抗議して十七万人が参加した集会が行われたことを受け、「脱原発
へ立ち上がった日本の行動に連帯する」として計画。ベルリン中心部のブランデ
ンブルグ門から日本大使館前まで「再稼働反対」「日本を守ろう」などとアピー
ルしながら行進した。
 
 デモに参加した同団体のレギーナ・シュルチェさんは「反対の声を大きくこと
が大切だ。私たちが応援する気持ちを日本の人たちに伝えたい」と話した。
 ドイツは、東京電力福島第一原発事故を受け、二〇二二年までの原発全廃を決
めた。大飯原発再稼動をめぐっても、緑の党が反対の署名活動などを行っており、
原発に関する日本の選択を注目している。(7/30東京新聞より抜粋)

 


つまり、ドイツの公共放送と東京新聞は市民の側に立っていることが、これでも判ります。

2012年7月28日土曜日

106:「フクシマが日本社会に問いかけているもの」/小田実氏5周忌によせて

今年の7月30日は75歳で亡くなった小田実氏の5周忌になります。フクシマの後、わたしのような年配のひとで「彼が生きていてくれたら、あと10年は生きてほしかった」と思う人は少くないでしょう。
もうひとり、どうしても生きていてほしかった人物は高木仁三郎氏です。→以前にも想い出を書きましたが、彼はあまりにも若くして亡くなりました。健在ならば現在問題になっている原子力規制委員会の委員長に彼ほどふさわしい人物はいないからです。脱原発を願う圧倒的多数の日本人の意思を代表して、おそらく過酷事故を起こさせてしまった日本で、ドイツより早期の脱原発を実現する先頭に立っていることは間違いありません。

ここで紹介する以下の拙稿は、小田実氏が晩年に友人たちとともに立ち上げた→「市民の意見30・東京」からの依頼で最近執筆したものです。
これは、もとより追悼文ではありませんが、彼が健在ならば、どのような考えで何をしているかとの問いへの、わたしなりの考えです。小田実氏5周忌に際して、『市民の意見』の編集部の同意を得て掲載いたします。掲載写真もまったく同じものです。
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フクシマが日本社会に問いかけているもの
                            梶村太一郎
-->
 フクシマが日本社会に問いかけているものは何だろうか。端的に言ってそれは戦争の歴史認識に裏打ちを欠いた弱さを自覚することにあるとおもう。

 

ソ連崩壊を招いたチェルノブイリ事故

 
 かつて、ゴルバチョフ元ソ連大統領は回想録でチェルノブイリ原子力発電所事故はわが国技術が老朽化したことだけでなく従来体制がそ可能性を使い尽してしまったことをまざまざと見せつけた恐るべき証明であったそれは同時に歴史皮肉か途方もない重さでわれわれ始めた改革にはねかえり文字通り国を軌道からはじき出してしまった」と述べている。事故が、彼が始めたばかりの社会主義改革路線であるペレストロイカ政策を押し流し、ソ連邦体制の崩壊にいたった大きな要因であったとの証言である。
 
 ちょうど彼がこの回顧録を執筆している九〇年代前半に、わたしも日本の市民運動の仲間とベラルーシの被災地に被害者を訪ねたことが二度ある。そこでは子どもたちに甲状腺癌だけでなく、白内障などの本来なら老人性の疾病が頻発しており、内部被曝の恐ろしさに言葉を失った。南部の放棄された廃村の広大な農地に立ったとき、ちょうどチェルノブイリ方向からの暖かい南風が大地を這って来た。「この風が運んで来たのだ」と思った瞬間、足下から立っていられないほどの胴震いに襲われたことがある。以来、放射能汚染への恐怖はわたしには理屈を超えた身体的なものにもなっている。

 そこではまた、第二次大戦でベラルーシは人口と国土の三分の一を失い、ようやく人口が戦前の水準に回復したとたんに、原発事故で再び国土と人口の三分の一が汚染されたことを知った。しかも今度は数世代ではとても回復できないほぼ永久的な打撃だ。すなわちドイツ軍の侵略と破壊より質が悪い損失なのだ。この事実を体制が隠蔽して被害が拡大したことを、ソ連邦の市民は知ることになる。かつてドイツ侵略軍を撃退した体制が崩壊したのは必然であった。

 

ドイツの加害と被害の歴史認識

 
 さて、あまり知られていないことだが、体制崩壊が起こったとたん、いち早く市民に救いの手を差し伸べたのがドイツの市民団体であった。西側諸国の市民団体もそれに続いたのであるが、それ以来二〇年を経た現在も、たゆまなく救援を続けているのがドイツ、イタリア、そして日本の旧枢軸国の市民団体なのである。

ミンスク北方の新しい村にドイツ人若者も駆けつけ一家総出で農家を建設
 これは決して偶然ではないだろう。特にドイツの多岐にわたる援助では、汚染地域の村を丸ごと移住させるプロジェクトも実現している。ある移住村では、援助で調達された資材で村民が一家総出で自らこれまで六〇戸ほどの家屋を建設し、夏休みにはドイツの若者たちも手伝いに出かけて歴史も学ぶ。しかもそこにはドイツ製風力発電が二基あり、驚くべきことには有り余る電力を売却するためにドイツ方式の余剰電力買い取り制度も導入され、新しい村は大きな収益を上げているという。

ベラルーシ初めての風力発電二基
 「独裁で悪名高いベラルーシ政府がこの制度を認可したのには驚いた」と、この「脱チェルノブイリの故郷」プロジェクト代表のルードヴィッヒ・ビュルグマン医師から聴いた。膨大な資金はどうしたのかと問うと、「多くのNGOが協力して寄付を集めた。なにしろドイツ軍が取り返しのつかない最も甚大な被害を与えておきながら、何の賠償も得ていない市民への献金だからよく集まった」と答える表情は嬉しそうだ。この答えに戦後世代のドイツ市民の行動の動機である歴史認識が顕著に現れている。

  「なぜドイツは脱原発を決定できたのか」とは、フクシマ以降に、日本ではメディアでもしばしば問われる。「ドイツはチェルノブイリで汚染被害を体験したからだ」というのがよくある答えだ。確かに、特に南ドイツは、現在の栃木あたりの関東北部ほど汚染され、いまだにキノコやイノシシの汚染度は高い。だが、これは表面的な見方だ。根本にあるのは先の大戦での「加害と被害の歴史認識」である。

 

 二度と戦争はごめんだ

 
 ドイツ語で Nie wieder Krieg, Nie wieder Auschwitz(二度と戦争はごめんだ、二度とアウシュビッツはごめんだ)という、よく繰り返される拒否のスローガンがある。これは先の侵略戦争とホロコーストでの加害体験からくるものだと一義的には解釈できる。しかし、よく観察するとこの「戦争拒否」には被害体験もあることがわかる。

  一九八六年に小田実らと始めた「日独平和フォーラム」による訪問がきっかけで、わたしは当時そこで警察力に守られて建設が強行されていたバイエルン州ヴァッカースドルフ核燃料再処理施設建設に反対する市民運動の仲間たちを何度も訪ねることになった。当時の同州首相シュトラウスは、日本の中曽根康弘と並ぶ「日独の核の男爵」と呼ばれた人物で、アデナウワー政権の国防大臣であった一九五七年には、西ドイツ国防軍の核武装を提案している。

 初めて訪ねたころは、チェルノブイリの事故により高揚した反対運動で、施設の建設現場を巡る攻防戦はデモ隊と警察の双方に死者もでる激しいものになっていた。それを支える現地の草の根の市民たちとずいぶん親しくなり、家族付き合いまでになると、年寄りたちが語る家族史を聴く機会が多くなり、彼らの運動参加への動機が「二度と故郷を失いたくない」ことであることを知った。
 ドイツは敗戦で国土の四分の一にあたる東プロイセンやシュレジア地方の領土を喪失しており、そこから一二〇〇万ものドイツ人が追放されている。これは敗戦後の人口の二〇パーセントにのぼる。これらの人々と彼らの子弟が、全国の反原発運動の積極的な担い手には多いことがわかってきた。

 よく知られているように、日本とは逆に、戦後ドイツでは戦争加害は公にも多く語られ、被害については公然と語ることは政策的にも避けられてきたし、現在でもそうである。語ればたちまち被害諸国の神経を逆なでするからだ。とはいえ市民の意識から故郷喪失の痛みが失われることはありえない。
 原子力施設建設は彼らの、この歴史体験の痛みに触れ、「二度と故郷喪失はごめんだ」と立ち上がらせたのである。これがドイツ市民が脱原発を実現した陰の大きな力である。そしてそれはまた、チェルノブイリで故郷を喪失したベラルーシの人々への同情ともなり、積極的な援助活動への力ともなっている。フクシマでもこの力が発揮され、メルケル首相をして彼女の原発稼働延長策を放棄させたのである。
  
 彼女の見事な君子豹変ぶりについて、先の六月末に「市民と科学者の内部被曝研究会」を始めとする日本の市民諸団体に招待された高木仁三郎の友人で、ドイツ放射線防護協会代表の→セバスチアン・プルーグバイルは次のように述べている。
脱原発決断を発表するメルケル首相2011年3月14日撮影梶村
 「私は確信しているのですが、首相にとって決定的であったのは福島の大惨事が技術的な問題だったのではなく、福島の事故のニュースがチェルノブイリ事故後の恐怖の記憶をドイツ人に呼び起こすことに、彼女が気付いたことです。この恐怖の記憶の波と、皆さん日本の人々への同情の思いの波があまりにも大きく、直ちに明確な行動を起こさなければ、次の選挙で負けてしまうかもしれないとの懸念を、正当にも首相はいだいたのです。そこで彼女は行動を起こしたのです。政治権力上の計算でしたが、彼女自身はその決定がエネルギー政策上正しいのかどうかについて、内心ではほとんど確信していなかったのです」
 彼のこの言葉は、同じ東独出身で同じ物理学者であるメルケル首相への皮肉を込めた強烈で鋭い批判である。このようにドイツ市民が脱原発を実現したのは、市民の戦争での加害認識が、被害認識に裏打ちされ、それがもたらす「犠牲者を哀悼する能力」が、チェルノブイリとフクシマで発揮されたからであるといえる。

 「二度と敗戦はごめんだ」のフランス

 ところが、ライン河の対岸の原子力大国フランスでは事情がまるで反対である。高木仁三郎の盟友で彼と一緒に「もうひとつのノーベル賞」を受賞したフランスのマイケル・シュナイダーの言葉を挙げよう。同国が核大国となった根拠を問うわたしに、第二次世界大戦後の国是とも言える歴史認識について「それは二度と敗戦はごめんだ」であるとし、「宿敵ドイツ軍による占領とヴッシー傀儡政府の屈辱体験は二度と許せない。ドゴールは伝統的な大国意識をあおって核武装をし、ついには原発大国となった」という。ここには戦争の加害認識は皆無で、ただ被害認識だけが伝統的大国主義の復活の保障としての核技術を促したのである。
 日本よりはるかに原子力経済に依存するフランスが、そこから脱出するのは容易ではない。市民も多数が「フランスの技術は最高だ」といまだに大国意識を発揮して原発神話を信じている。ドイツ人が心配するのは、「フクシマの次はフランスのどこかではないか」ということだ。このように同じ「二度とごめんだ」という戦争体験が、隣国の独仏では原子力政策で対極の結果を生んでいる。戦争で惨敗し大国意識を失ったドイツと、惨勝して傷ついた大国意識を回復しようとしたフランスとの核政策での落差は巨大だ。

「過ちを繰り返す」加害認識なき日本

夜のヒロシマ平和公園の追悼の辞 撮影梶村
 では、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者に「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と毎年誓っている日本はどうなのか。なぜフクシマで過ちを繰り返し、ヒバクシャへの誓いを裏切ってしまったのであろうか。なぜ核兵器廃絶を訴える被爆者団体や核戦争防止医師の会が、脱原発運動の先頭に立てないのであろうか。
 それは、東アジアの戦後史では、「唯一の被爆国」であるとの被害認識に依存することで、ドイツ同様に本来はあるべき戦争犯罪の加害認識を社会全般から抑圧することが日本には許されてきたからである。侵略者日本の戦後歴史認識は、皮肉なことに被爆体験によってまずはあるべき加害認識の裏打ちを失ったいびつなものになっている。不幸にもそこでは自他の犠牲者を哀悼する力が極めて脆弱だ。そしてこの弱さが、原発事故の被害を社会の「想定外」としたのである。
 早くからこの加害の裏打ちを欠いた日本の歴史認識を指摘した小田実が健在ならば、彼はいまごろはフクシマの被害者のための新しい村の建設に奔走しているに違いないとわたしは確信している。
(文中敬称略)(かじむら・たいちろう/在ベルリンジャーナリスト)
『市民の意見』NO.133号 2012-8-1掲載

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 寄稿は以上のとおりですが、現在日本で始まっている市民の自立した運動の日本における最初のものは、小田実氏らが60年代に始めたべ平連の活動であることはよく知られています。
とはいえ、現在高揚している金曜デモなどに参加している若者の皆さんには、それがどのようなものであったかは実はあまり知られていないのではないかと思います。半世紀も以前のことですからそれも当然です。

そこで、 小田実氏がどのような人物であったかをデジタル世代のみなさんに簡単に紹介します。
まず、この短い動画
-->「血肉の思想といは歩いて考えるがいいをご覧ください。
こちらです。 まさに今、脱原発を求めて日本の若者たちがこぞって始めていることがこれではないのでしょうか。

そして、 今から45年前、岡本太郎氏の「殺すな」の揮毫とともに「ベトナムでの殺戮をやめよ!」と主張した意見広告をワシントンポスト紙に寄せた、単純明快であるからこそ普遍的なスローガンは、小田実氏が生涯をかけて訴え続けた「棄民と難死の思想」のシンボルとして、現在の反原発行動の中でも→新たなデザインのバッジとシールとなって生き続けています。
新デザイン「市民の意見30の会」


ワシントンポスト意見広告



 以上ご参考まで。
なを、梶村の小田実氏の想い出は、→『季刊中帰連』誌で、「世界のチング小田実」と題して2007年から08年にかけて3回に分けての連載があります。

また、この稿で触れた「ドイツはなぜ脱原発ができたのか」との問いに関する、ひとつの回答として、TBSの金平茂紀記者が今年の2月にみどりの党の共同党首のひとり、→クラウディア・ロート氏にインタビューしたものが書き下ろされています。ロートさんはそこで、歴史認識については触れてはいませんが、彼女の言葉はドイツ社会の雰囲気を生き生きと表現しているので参考になります。合わせてお読み下さい。

彼女の口から歴史認識について聞き出すためには、例えば「フランスとドイツの原発政策の差がでている歴史的社会的理由は何か」といった質問が必要なのです。
このインタヴューにも触れている金平記者による報道特集→ メルケル首相脱原発裏側は幅広い視点からまとめられており、その後もよく観られているようです。
この取材風景については→こちらもご覧ください。

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7月30日、小田実氏の命日に追加です。

本日の東京新聞の一面トップはもちろん昨日の国会大包囲の記事ですが、その左に大きな以下のような小田氏についての坂本良江さんのお話しが掲載されています。

ベルリンに掲載紙のオリジナルが着きましたので、写真を差し替えます
東京新聞2012年7月30日1面

2012年7月26日木曜日

105:7月29日ベルリン都心で反原発連体行動:Sayonara Genpatsu.Soli Demo für Japan in Berlin am Sonntag

 みなさま、
7月29日(日)の東京での国会大包囲デモに連帯してベルリンでも連体行動がおこなわれます。ベルリンの反原発市民運動のひとつ→Anti Atom Berlinが呼びかけています。
場所はブランデンブルグ門のパリ広場で、13時30分からです。

ベルリン在住の日本人のみなさまもドイツ人友人を誘って、こぞって参加して下さい。この日アムステルダムでも連体デモがおこなわれます。
夏休みの最中で大デモとはなりませんが、Sayonara Genpatsu ! の声をベルリンの中心の空の下で挙げましょう。

以下独英語での呼びかけです。


Hallo MitstreiterInnen,

In der letzten Woche haben wir euch kurz über die aktuellen Ereignisse in
Japan berichtet.

Damals versammelten sich am Montag, den 16. Juli 170 000 Menschen im
Yoyogi-Park in Tokio, um gegen die Wiederinbetriebnahme von
Atomkraftwerken zu demonstrieren. Direkt nach dem Unfall in Fukushima
wurden alle 50 AKWs in Japan abgeschaltet, doch nun droht die
Wiederinbetriebnahme seit Premierminister Yoshihiko Noda das
Wiederanfahren der Reaktoren verkündet hat. Anfang Juli kam es zur
Wiederinbetriebnahme der Reaktoren 3 (und 4) des Atomkraftwerks in Oi
durch die Betreiber Kansai Electric Power.

Seit der Atomkatastrophe im letzten Jahr, finden wöchentlich Mahnwachen
und Demonstrationen vor dem Ministerpräsidium in Japan statt. Aktivisten
haben 7,85 Millionen Unterschriften gegen die Nutzung der Atomkraft
gesammelt. Neben anderen Künstlern und Prominenten, hat sich auch der
Nobelpreisträger Kenzaburo Oe der Bewegung angeschlossen.

Der Protest und die Empörung der Aktivisten sind massiv gewachsen. Zur
Freude der Bewegung, gab es auf die friedliche Großdemonstration am
Montag, eine breite und weltweite Medienreaktion.

Und wir wollen jetzt in Berlin reagieren und auf die Straße gehen,
AntiAtomBerlin schließt sich an, ganz im Sinne:

Sayonara Genpatsu = Auf Wiedersehen, AKW!

Wir wollen am Sonntag, den 29. Juli 2012 hier in Berlin am Pariser Platz,
Brandenburger Tor unsere Solidarität mit Japan ausdrücken. 

Wir versammelnuns um 13:30 am Pariser Platz und um 14 Uhr findet eine Kundgebung statt und spontan zu Fuß weiter…

Also seid dabei!
Sayonara Genpatsu, weltweit Atomkraftwerke sofort stilllegen!

Sonnige Grüße,
AntiAtomBerlin

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Last week in Japan 170 000 people demonstrated against the restart of the
nuclear power plants. The Prime minister of Japan Yoshihiko Noda has
decided to restart the two reactors of the power plant at Oi.

Since the catastrophe at Fukushima all 50 nuclear power plants were set
off. Since then, the anti nuclear movement of Japan has continuously
organized weekly demonstrations, and on that Sunday 170 000 activists came
together at the Yoyogi-Park in Tokyo. They are worried, and are pleading
for: Sayonara Genpatsu = Good by nuclear power!

There was a broad reaction of the media to this demonstration and finally
the anti nuclear movement of Japan is receiving the attention it deserves.

Anti Atom Berlin wants to demonstrate its solidarity with the activists in
Japan, and therefore we will meet on Sunday, 29th at 13:30 at the Pariser
Platz at the Brandenburger Tor in Berlin.  At 14 pm a rally is planned and
maybe a march...

Cheers,
AntiAtomBerlin

If you are interested in reading more:

PressTV Tokyo:
Japan Press release:
The anti nuclear movement Japan:
http://www.youtube.com/watch?v=sxLr0k1Sd98


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これに関して大沼安史さん、さっそくブログで以下のように→「連帯=連体」の見出しで報道:


梶村太一郎さんベルリン通信 29日 日本国会包囲連帯しベルリンでも Sayonara Genpatsu !デモ Soli Demo für Japan  梶村さん これは連体行動であると提起/連帯する連体」! ちをまもるため連体


そのとおりです。Danke! Herr Ohnuma.

人間の鎖もキャンドルデモも人々の連体そのものです。
われわれは身体をもつ生き物だ!


2012年7月25日水曜日

104:「われわれは犠牲者たちに見つめられている」大江健三郎氏ルモンド紙インタヴューの全訳/村岡崇光

先ほど、オランダのライデン大学名誉教授の村岡崇光氏からメールで、3・11直後にルモンド紙が大江健三郎氏とおこなったインタビューの全訳とネットワークでの配布依頼のメールが送られてきましたので、そのまま紹介させていただきます。


皆様

昨年3月18日私が講読しているオランダの日刊紙NRC Handelsbladに大江氏とルモンドとの間に行われた対談のオランダ語全訳が掲載されました.そこで取り上げられている日本の核エネルギー政策の問題性、大江氏の視点は遺憾ながら今日もなお極めて現実的な問題としてとどまっており、この対談の要趣は昨年の「世界」5月号に掲載されましたが、全文を和訳すべきではないか、と思い、ルモンド紙編集部から正式の許可を得ましたので、ここにフランス語からの全訳をお届けいたします.

記事の題は「対談:ノーベル文学賞受賞者、日本の良心を代表する作家は死者の記憶を裏切ってはならないこと、人間の尊厳を尊ばなければならないことを訴えています.大江健三郎『われわれは犠牲者たちに見つめられている』」でした.

このメールは私の知人、友人、また日本人による反原発のネットワークを介して広く配布しても良い、との許可をルモンド紙から戴いています.皆さんを通してこのメール、添付が更に広く行き渡ることを希望します.

       村岡崇光

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    大江健三郎とルモンドとの対談

  「われわれは犠牲者たちに見つめられている」

Entretien Prix Nobel de littérature, conscience du Japan, l’écrivain rappelle le devoir de fidélité à la mémoire des morts et à la dignité de l’homme
Kenzaburô Ôé: «Nous sommes sous le regard des victimes»
Le Monde, 17.3.2011

 
『先生のご意見では、日本の現代史において今度の災害がもつ意義はどこにあるで
しょうか?』

 過去数日間、日本の新聞はこの災害のことしか書いていません.全くの偶然なので すが、私が地震の前日に書いたものが3月15日の日刊紙「朝日新聞」の夕刊に掲載されま した.その記事の中で、私は私と同世代のまぐろ漁船の船員で太平洋のビキニ環礁で行われ ていた米合衆国による水爆実験に巻き込まれて放射線を浴びた人の一生に触れました.私が この人と会った時、私は18歳でした.彼はその後の生涯を核兵器の抑止効果という神話の 虚構とその神話を歌い上げる人たちの傲慢さとの戦いに捧げました.この漁夫のことをまさ しく今回の地震前夜に私が回想したというのは虫の知らせだったのでしょうか?彼は原子力 発電所に対しても戦い、それが内包する危険を指摘しました.

 わたしは、もうかなり前から三つのグループの人たちに焦点を合わせながら日本現 代史をあとづけてみたいという企画を温めてきました.その3グループとは広島、長崎原爆 の死者たち、ビキニの放射能被爆者たち——先ほど申しました漁夫はその生存者の一人でし たーーそして核施設での爆発事故の犠牲者たちです.この死者たち、核エネルギーの犠牲者 たちに視点をあわせながら日本現代史を考察して行くと、彼らが巻き込まれた悲劇の実態が 何であったかが見えてきます.

 今私たちは、原子力発電所の抱える危険が現実となったことを知っています.今回の 災害の実態を把握しようという私たちの努力がどういう形で決着するにしても、このような 事故を阻止するために人間として可能な限りの努力が傾けられていることに敬意を表するに やぶさかではありませんが、この災害が何を意味するかについては一切の疑義を挟む余地は ありません.日本の歴史は新しい段階を迎えた、ということであり、私たちは苦しみの中に あって大きな勇気を示してくださった男女、核エネルギーの犠牲者たちの眼差しをまたもや 受けている、ということです.今回の災害からどういう結論を引き出すことができるかは、 これから生き続けて行くことを許されている私たちが同じ過ちを繰り返してはならないとい う決意の固さにかかっています.

『今回の災害は、絶えず地震の危険に曝されている日本と核エネルギーの内包する 危険という二つの現象を極めて劇的な仕方で同時に示しています.前者は歴史開闢以来日本 が向き合って来ざるを得なかった現実であり、後者は地震や津波よりも厳しい被害をもたら す危険をはらんでいますが、それは究極的には人災です.日本は広島の悲劇から何を学んだ のでしょうか?』 

 私たちが広島の悲劇から学ばなければならない最も大事なことはあのとき即死した 男女、生き延びはしてもその後何年にもわたって心身両面の苦痛に耐えなければならなかっ た人々の人間としての尊厳です.私の著作の中のいくつかでこのことを明らかにしよう、と したつもりです. 

 原爆の火を浴びた日本人は核エネルギーのことを生産性というような点から考えて はいけなかったのです、広島の悲劇的体験の中に経済成長のためのレシピーを求めてはなら なかったのです.地震、津波、またその他の天災の場合と同じように、広島の体験を人類の 歴史のなかにしかと刻むべきなのです.これは人間自身が作り出した災害ですから、天災よ りは遥かに劇的な災害です.人間の命の尊さを無視し、原子力発電所を操り、かつてと同じ 誤りを繰り返す、ということはすでに他界された広島、長崎の犠牲者たちに対する最悪の裏 切り行為に他なりません. 

 先に言及しましたビキニのマグロ漁船の乗り組み員は原子力発電所廃絶を要求して やみませんでした.現代日本の最大の思想家のひとりである加藤周一(1919−200 8)は原爆と、人間が抑制できなくなってしまった原子力発電所のことに触れながら、今を 去る1000年以上前に書かれた清少納言の「枕草子」の一節を引用しています.著者は、 遥か遠くにあるように見えて、同時に極めて身近なことについて語っています.核の悲劇は 想定外の、遥か彼方の可能性にしか思えないかもしれませんが、しかし絶えず私たちの近く にあるのです.
 
 『先生は1994年のノーベル文学賞受賞講演に「曖昧な国日本から来た私」とい
う題を付けられましたが、「曖昧な日本」という表現は今でも妥当するでしょうか?』

 私があのとき指摘した日本の曖昧さは現在日本で起こっていることによっていよい よはっきりしてきました.現時点において、その曖昧な日本が固守すべき価値観は完全な行 き詰まり状態に陥っています.曖昧さの反対は明確さです.1994年に私が曖昧な日本に ついて語った頃は、私の祖国は選択や明確な政策決定をまだ引き延ばすことのできる、つま り曖昧さの中に安住するという贅沢を享受できるありがたい時代でした.日本は、決済日の 指定されていないこういう状態が他の国々からも受け入れてもらえるものと考えていまし た.それがために、自らの歴史を認めることもせず、今日の世界における責任をとることも しませんでした.政治の面におけるこの不明確さを許容出来ると考え、経済分野においても 同じ姿勢を取り、最終的にどこへ行き着くかが分からなくてもかまわないような政策を採用 し、その結果が90年代初頭のバブル経済の破綻ということになったのです. 

 今や日本は態度決定を迫られています.中国からも、アジアの他地域に対して責任を とるようにプレッシャーがかかっています.日本列島の中で米軍の基地が最も集中している 沖縄の住民たちも彼らの領域に駐留している米軍の存在に関して日本政府が明確な方針を打 ち出すことを期待しています.米軍基地としての沖縄というこの状況は日本人のみならず、 米国人にとっても最早受け入れがたいものです.いまこそこの基地の役割を明確に規定し直 すべき時です.選択に融通性をもたせておくことは最早許されません.沖縄戦の犠牲者たちが日本政府に明確な政策決定を要求しています.日本が決定を先送りできた贅沢な時代は最 早過去のものとなりました.

『敗戦から60年、日本はあの時誓った決意、つまり憲法に謳われた平和主義、武 力放棄、非核三原則を忘れたかに見えます.今回の災害は批判的な良心の覚醒を促す、とお 考えになりますか?』
 
 敗戦時、私は10歳でした.一年後、新憲法が公布され、時を同じくして教育基本 法が制定され、憲法の基本線が子供でも理解できるような形で書かれていました.
敗戦に続く10年間、武力に訴えることを放棄するという一項をも含む平和憲法、 さらに非核三原則(核兵器をもたず、つくらず、持ち込ませず)が戦後日本の基本的理念を ほんとうに表現したものであろうか、ということを絶えず自らに問い続けました.当時青年 であった私がこの点について何らかの疑いを抱いていたら、当然のこととして大人たちはこ の問いを自らに対して発していなければならなかったはずです.

 現実には、日本はなし崩し的に再軍備し、米国との秘密協定によって核兵器が日本 列島に持ち込まれ、公式にお墨付きをもらっていた非核三原則は事実上空文句となりまし た.だからといって戦後世代の理想が放棄された、ということにはなりません.日本人は戦 争中の苦しみ、原爆のことをなおも記憶にとどめていました.私たちを見つめていた死者た ちは私たちが上記のような理想を尊重し続けることを要求しました.広島、長崎の犠牲者の 記憶は政治の現実を楯にとって核兵器の有害性を過小評価することを許しませんでした.私 たちはそのような現実主義には反対します.と同時に事実上の再軍備、米国との軍事協定を 許容したのです.ここに今日の日本の曖昧さがすべからくさらけ出されています.

 年が経つにつれて、平和憲法、再軍備、米国との軍事協定の混在から生まれるとこ ろのこの曖昧さはいよいよ強固なものにならざるを得ませんでした.敗戦時の平和主義の誓 いに私たちは実質的な内容を織り込まなかったからです.アメリカの核抑止力の有効性を信 頼しきった日本人は、アメリカの核の傘の下に安住する日本の態度の曖昧さをその外交政策 の基軸にまで押し上げたのです.アメリカの核抑止力に対する安心感は超党派的な性格を帯 びることとなり、2010年8月、広島被爆者追悼のとき、ときの民主党総理鳩山由紀夫 が、米国代表が核兵器の危険性を指摘したにも拘らず取った態度に明白でありました.

 福島原発事故を通して日本人が広島、長崎の犠牲者たちの気持ちを汲み取り、核の 危険を再認識するようになることを願わざるを得ません.われわれはこの危険を再び新たに 体験したのであり、核兵器を所有する大国が唱えるところのその抑止力の有効性という神話 を永遠に葬りたいものです.
 
『先生の作品の一つである「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という題にど
う答えるべきか、と問われたら、いまどういう回答をなさいますか?』
 
 私があの作品を書いた時、私は、世間でいうところの成熟した年齢に達していまし た.現在の私は人生の第三段階に入っており、「最後の小説」を執筆中です.もし私が現在 のこの狂気をうまく生き延びることができたら、その作品はダンテの「神曲」の中の地獄篇 の最後の一節の引用をもって書き出すつもりです.そこには「それから、われわれは外に出 て星を眺めよう」というようなことが書いてあります. 

 ルモンド紙東京特派員:PHILIPPE PONS 
  訳:村岡崇光 オランダ、ライデン大学名誉教授 

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以上で翻訳引用終わりです。

梶村からのコメント。
このインタヴューの日本語での全文翻訳がまだなかったことに驚きました。
あるいはどこかにあるとしても、村岡崇光教授の翻訳は一流ですので紹介いたします。


なを、このルモンドインタヴューに関しては、わたしも昨年4月末のドイツ誌とのインタヴューAusstieg aus derLebenslügeで指摘しています。ドイツ語ですが興味のある方はご参照下さい。